2011年 03月 19日
3月11日から今日まで
東日本大震災から1週間あまりが経ちました。
亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。
被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。
なんて言葉にしたらいいのか、津波の恐ろしさに目を覆いたくなるような惨状。
ブログの更新ができずにいましたが、やはり記録に残そうとPCに向かっています。
3月11日午後2時46分。私は仕事中でした。
揺れが始まって 事務の女性と顔を見合わせ「地震だ!」と。
最初はいつものようにすぐおさまるものとその場で静かにしていました。
揺れはおさまらず、それどころか長く強くなり怖くなって建物の外へ。
道路を走っていた車はハザードをつけて停まり、一番に心配したのは子ども達のこと。
卒業式が近く、大掃除のために14:25下校。ちょうど下校途中でした。
余震が続く中、建物に戻り、同居の義両親に電話。何度かかけてやっと通じました。
子ども達の様子を見に行ってほしいと義母にお願いしました。
そのあとはもう固定電話も携帯電話も繋がらなくて、
繰り返す余震の中、なかなか家にも帰れず、会社で少し落ち着くのを待ちました。
無理を承知で義両親宅に電話をしたら奇跡的に繋がり、子ども達の声を聞けました。
こういう状況が一番苦手だと心配していた次女がやっぱり泣いていて、
「大丈夫だよ。今から帰るから待っててね。」と話して、私も心を落ち着かせて車で帰宅。
家に帰ると子ども達が1階の義両親宅で義母と待っていました。
下校途中に経験したこともない大きな地震に遭い、
不安で泣いていた次女とその次女を励ましながら帰ってきた三女。
心配した先生が様子を見に来てくれたこと。子どもが歩道にいるのを見て、
近所のおばさんが声をかけてくれたことなどを矢継ぎ早に話してくれました。
長女は中学校で地震に遭い、泣き叫ぶ友達に声をかけ、背中をさすってあげたそうです。
余震の続く中を自転車で無事に帰ってきていました。本当に無事でよかった。
2階の我が家は棚から物が落ち、平積みしていた本やプリントが散乱していました。
ぷよ(旦那)とは携帯で連絡がつき、お互いの無事を確認。
翌日にバレーの練習試合の予定があったので、主催チームの監督に連絡をとり
中止を確認してから、片付けを後回しにして部員に連絡。
なんとか夜9時に全員に連絡がつきました。
安否確認も一緒にできて、みんな無事とわかりやっと座ることができました。
ぷよもあちこち停電で渋滞していた中をいつもの何倍もかかって帰宅。
今思えば、うちは地震後に停電にならなかったこと、水も出て、不自由しなかったのは
本当に恵まれていたと思います。どれだけの人が同じ時間に不安な思いをしていたことか。
時間が経つにつれて、その甚大な被害が報告され、言葉が出ませんでした。
体に感じる余震が幾度となく続き、その日の夜から子ども達とリビングに
布団を並べて眠ることにしました。余震のたびに目を覚まして怖いと泣いた次女。
余震の回数も減ってきて、子ども達も落ち着きを取り戻したので
今日、リビングの布団をもとの場所に戻しました。
バレーの練習は3月中は自粛。20日に予定されていた新人戦は中止。
18日のライブは延期。26日に行く予定だったTDLは中止。(TDRも休園中)
今のこの状態からは当然のことです。
しばらくの間、計画停電の実施や物不足、燃料不足が続くと思いますが
今できることを探して、被災された方々が少しでも心安らげるように、
被災地が一日も早く復旧するように祈っています。
まず節電と買い急がず冷静な行動を。
隣県の福島の原発のことが一番気がかりですが、冷静に落ち着いた行動を。
うまく言葉にできませんが、希望をもって、みんなの気持ちをひとつに。
亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。
被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。
なんて言葉にしたらいいのか、津波の恐ろしさに目を覆いたくなるような惨状。
ブログの更新ができずにいましたが、やはり記録に残そうとPCに向かっています。
3月11日午後2時46分。私は仕事中でした。
揺れが始まって 事務の女性と顔を見合わせ「地震だ!」と。
最初はいつものようにすぐおさまるものとその場で静かにしていました。
揺れはおさまらず、それどころか長く強くなり怖くなって建物の外へ。
道路を走っていた車はハザードをつけて停まり、一番に心配したのは子ども達のこと。
卒業式が近く、大掃除のために14:25下校。ちょうど下校途中でした。
余震が続く中、建物に戻り、同居の義両親に電話。何度かかけてやっと通じました。
子ども達の様子を見に行ってほしいと義母にお願いしました。
そのあとはもう固定電話も携帯電話も繋がらなくて、
繰り返す余震の中、なかなか家にも帰れず、会社で少し落ち着くのを待ちました。
無理を承知で義両親宅に電話をしたら奇跡的に繋がり、子ども達の声を聞けました。
こういう状況が一番苦手だと心配していた次女がやっぱり泣いていて、
「大丈夫だよ。今から帰るから待っててね。」と話して、私も心を落ち着かせて車で帰宅。
家に帰ると子ども達が1階の義両親宅で義母と待っていました。
下校途中に経験したこともない大きな地震に遭い、
不安で泣いていた次女とその次女を励ましながら帰ってきた三女。
心配した先生が様子を見に来てくれたこと。子どもが歩道にいるのを見て、
近所のおばさんが声をかけてくれたことなどを矢継ぎ早に話してくれました。
長女は中学校で地震に遭い、泣き叫ぶ友達に声をかけ、背中をさすってあげたそうです。
余震の続く中を自転車で無事に帰ってきていました。本当に無事でよかった。
2階の我が家は棚から物が落ち、平積みしていた本やプリントが散乱していました。
ぷよ(旦那)とは携帯で連絡がつき、お互いの無事を確認。
翌日にバレーの練習試合の予定があったので、主催チームの監督に連絡をとり
中止を確認してから、片付けを後回しにして部員に連絡。
なんとか夜9時に全員に連絡がつきました。
安否確認も一緒にできて、みんな無事とわかりやっと座ることができました。
ぷよもあちこち停電で渋滞していた中をいつもの何倍もかかって帰宅。
今思えば、うちは地震後に停電にならなかったこと、水も出て、不自由しなかったのは
本当に恵まれていたと思います。どれだけの人が同じ時間に不安な思いをしていたことか。
時間が経つにつれて、その甚大な被害が報告され、言葉が出ませんでした。
体に感じる余震が幾度となく続き、その日の夜から子ども達とリビングに
布団を並べて眠ることにしました。余震のたびに目を覚まして怖いと泣いた次女。
余震の回数も減ってきて、子ども達も落ち着きを取り戻したので
今日、リビングの布団をもとの場所に戻しました。
バレーの練習は3月中は自粛。20日に予定されていた新人戦は中止。
18日のライブは延期。26日に行く予定だったTDLは中止。(TDRも休園中)
今のこの状態からは当然のことです。
しばらくの間、計画停電の実施や物不足、燃料不足が続くと思いますが
今できることを探して、被災された方々が少しでも心安らげるように、
被災地が一日も早く復旧するように祈っています。
まず節電と買い急がず冷静な行動を。
隣県の福島の原発のことが一番気がかりですが、冷静に落ち着いた行動を。
うまく言葉にできませんが、希望をもって、みんなの気持ちをひとつに。
by choco-milktea
| 2011-03-19 21:36
| 日々のこと